絵本についてはアニメ感想やキャラクター語りで何度か触れたことはありますが、まとめて考察したことがなかったので、この機会に書いてみたいと思います。
↓↓↓以下はネタバレですのでご注意ください。
『なまえのないかいぶつ』、『めのおおきなひと くちのおおきなひと』、『へいわのかみさま』……。
『MONSTER』において、これらの絵本は二重の意味を持っています。
ひとつは、人を洗脳するためのアイテムであるということ。
もうひとつは、『MONSTER』という物語のメタファーになっているということ。
ひとつめ。
赤いバラの屋敷で行われていたフランツ・ボナパルタの朗読会などは、洗脳のために使っていたことは言うまでもありません。
さらに、「母親の選択」のあと一人残され、『なまえのないかいぶつ』を一人で読んでいたヨハンにも多大な影響を与えました。絵本と自分を重ね合わせ、錯覚したのです。ヨハン自身が“なまえのないかいぶつ”であるかのように。
そしてふたつめ。
『MONSTER』では伏線が散りばめられ、一度読んだだけでは理解できないことも多いのですが、その難解さは絵本そのものが比喩となっているところにあります。
登場人物の背景、行動、心情など、絵本を手がかりにして込められた意味を読み解かなければならないというところが、難しくもあり、『MONSTER』の面白いところでもあります。
以下は絵本ごとの考察です。
■なまえのないかいぶつ/エミル・シェーベ(エミル・セベ)
せっかくなまえがついたのに、だれもなまえをよんでくれるひとはいなくなりました。
ヨハン、すてきななまえなのに。
『なまえのないかいぶつ』は、なぜヨハンが次々に養父母を殺していくのか、名前が無いこと=存在していない者であることと合わせて示唆した絵本です。
その人間を知る者すべてがいなくなれば、存在していないことになる――。
始まりは、怪物(=フランツ・ボナパルタ)に見つからないように、怪物から逃げるためにしたこと。「遠くへ逃げるんだ……。できるだけ遠くへ……」というボナパルタのニナへの言葉を、伝え聞いたヨハンが曲解してしまったのです。
そうして里親を殺し続け、双子の存在を抹消させて、511キンダーハイムでアンナと怪物以外の記憶を失うことで、怪物としてのヨハンが完成しました。
ルーエンハイムの殺戮や赤いバラの屋敷の惨劇も、それぞれヨハンやボナパルタが起こした理由はともかく、行動原理は『なまえのないかいぶつ』の延長線上にあると言っていいと思います。ヨハンは完全な自殺を行うため、ボナパルタは双子と双子の母親を助けるため。
二人とも『なまえのないかいぶつ』に支配されていたからこその行動でした。
また、なぜヨハンはヴォルフ将軍など執着する人物の周囲の人間だけを殺害していくのか。
もはや、なまえのないかいぶつとなったヨハンには、人を殺す以外に何もできないからです。“バリバリ グシャグシャ バキバキ ゴクン”というふうに。
だから名前を与えてくれた将軍を独りにし、自分が見た孤独な風景を“唯一の愛情表現”として同じように見せることしかできなかったのです。
同様に絵本でも、名前がほしかったかいぶつは、突き詰めていくと“親”を探し求めていたのではないでしょうか。自分に名前を付けてくれて、無条件に愛してくれる、そんな存在を。
もちろん、かいぶつにそんな自覚はないでしょう。そもそも親という概念さえ知らなかったのかもしれません。
西へ行ったかいぶつは「なまえなんていらないわ。なまえなんてなくてもしあわせよ。わたしたちは、なまえのないかいぶつですもの」と現状を受け入れていたようですが、東へ行ったかいぶつはどうしても名前がほしかった。でもかいぶつは人を食べていくことしかできない怪物だから、その願いは叶わない。
名前は無理やり手に入れるものではなく、親に名付けてもらうもの。
本編ラストでテンマに母の愛を問うヨハン。
『MONSTER』のテーマに親子愛が大きくかかわっていることが、こうして絵本からも読み取ることができます。
■めのおおきなひと くちのおおきなひと
/ヤコブ・ファロベック(ヤクプ・パロウベック)
とりひきだ。とりひきをしよう。
あくまがいいました。
『めのおおきなひと くちのおおきなひと』は悪魔との取り引きに応じた者と、応じなかった者のお話です。
あくまを拒絶しためのおおきなひとも、受け入れたくちのおおきなひとも、最後は不幸になってしまう、そんな救いのないストーリーです。
私はこれで、『MONSTER』のラストでボナパルタの実験に乗り、双子の片方を差し出してしまったあの母親を思い浮かべてしまいます。
「私が死んでも……この私の中で、どんどん大きくなっていく子供達が……必ずあなたに復讐する」
双子がお腹にいた頃からすでにボナパルタへの復讐心に囚われていた双子の母親。ボナパルタたちが三匹のカエルに現れた時、一度は子供たちを守ろうとしていたのに、「これは実験だ」と取り引きを持ちかけられた途端、片方の子を復讐の怪物にするために差し出したその姿は、あくまと取り引きしたくちのおおきなひとのようでした。
そして、のちに年老いた姿で登場し、今も生きている双子のことを想い涙を流したその姿も、「あくまととりひきなんかしなければよかった」と泣くしかなかったくちのおおきなひとと重ねて見てしまいます。
ちなみにこれは推測ですが、双子の母親アンナも名前を奪われていたようですし、彼女もこの『めのおおきなひと くちのおおきなひと』を洗脳の過程で読まされていた可能性もあるのではないでしょうか。
だから「これは実験だ」と言われた時、悪魔との取り引きに応じなければめのおおきなひとのように「あくまととりひきすればよかった」と後悔するのを恐れたのではないかと思うのです。
どちらを選んでも不幸になる。あの時の彼女には、そんな強迫観念さえ感じられます。
■へいわのかみさま/クラウス・ポッペ
かがみのなかのあくまがいいました。きみはぼく、ぼくはきみ。
どうしよう。このあくまがいたらみんながへいわにくらせない。どうしよう、どうしよう。
こまったかみさまは……
三匹のカエル、赤いバラの屋敷、“まるで世界に二人だけみたいだった”孤独な国境越え、記憶を失わせる511キンダーハイム……。何度も体験してきたつらい出来事から逃げるように、お互いを鏡のように思っていたヨハンとアンナ。
まさにこの双子が『へいわのかみさま』のモチーフであり(作中では双子が生まれる前に描かれた設定ですが)、殺人を繰り返していたヨハン=あくま、何も知らなかったアンナ=へいわのかみさまであると、リーベルト夫妻殺害のあの夜にお互いの認識を決定づけたのは、この絵本によるものでした。
なまえのないかいぶつとなったヨハンにも、自分のしてきた行為がどんなに忌むべきものであるかは、きっとわかっていたのだと思います。それがどんなにアンナに拒絶されるべきものなのかも。
だからこそ、この言葉を言うしかなかった。額に指を差して、「僕を撃てよ」と。
そしてその関係はテンマに移っていくわけです。
運び込まれたヨハンを助けることで医者の本分に気づいたテンマ。
人の命は平等であると気づかせてくれた象徴のような存在が、実は殺人を何とも思わないモンスターだったと知った時、おそらくアンナと同じ気持ちだったと思います。
テンマの言い放った「あんな奴、死んだほうがマシだ!」をその言葉通りに実行し、ハイネマン院長ら三人を殺害していたのがヨハンだったと知った時、ヨハンの中に自らの悪魔を見たのではないでしょうか。
ルーエンハイムで対峙したシーンでは、あの日の夜のヨハンとアンナの立ち位置が、そのままヨハンとテンマになっているのもその証しだと思います。
余談ですが、漫画版と違って絵本の『へいわのかみさま』では、最後が破かれたようになっていました。こういう凝ったギミックは面白くて好きです。
■めざめるかいぶつ/作者不詳
この絵本は本編には出ていないので、扱いが難しいですね。なので少しだけ。
『ANOTHER MONSTER』の感想にも書きましたが、これは新たな怪物=ヘルマン・フュアーが自分自身のことを描いたものだと思っています。
まだ物語は終わらないという、いわばホラーの王道のようなものじゃないでしょうか。
■感想
どの絵本も暗いし、不気味だし、最後はみんな不幸になるしで、内容的に苦手な人も多いだろうと思いますが、こうやって考察していくとむしろどんどん切なくなってくるから不思議です。そしてなまえのないかいぶつが愛おしくていとおしくてたまらなくなるという。
名前付けたるからこっちこいやぁ!とか言っても、きっとすぐ食べられちゃうんでしょうけどw かいぶつ怖かわいいよかいぶつ。
そして、よく考えて作られたこの絵本たちと密接に関わっている『MONSTER』のすごさにもあらためて気づかされました。
単純だけど、深い絵本。難解だけど、純粋に面白い漫画。
やっぱり大好きな作品です。
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